傾奇者とは??かぶき者のファッションや行動

 

歌舞伎の由来となったといわれる「かぶき者」は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて流行した社会的な風潮です。
作動や和歌をたしなむものを「数奇者」と呼んでいましたが、常識にとらわれない突飛なファッションや行動が数奇者よりさらに傾いたものという意味で「傾奇者」とされていたようです。

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傾奇者のファッション

男性には浅葱色や紺という色合いが好まれていた時代において、傾奇者は色鮮やかな女性者の着物をマントのように使ったり、袴に動物の皮をもちいてみたり、派手な扮装を好んでいたようです。
ビロードのえりや立髪、大髭、大太刀や大釜、大きな煙管といった「普通と違う風体」が「傾奇たる様」として目を引く有様でした。

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傾奇者の行動

素行は大変粗暴で、徒党を汲んでは飲食代を踏み倒す因縁をふっかける金品を奪うなどの所業を働いていました。
乱暴や狼藉も重ね、まさに無法者といったところです。
しかし仲間意識を重んじ、結束と信頼のもとに、生命をも潔く捨てる生き方を美学とした風潮も見られます。
決して仲間を売らないことで名を轟かせた「大鳥居いつ兵衛」は、厳しい拷問にも死をも恐れぬ心意気でのぞみ、斬首されました。
このような傾奇者は嫌われ者であった反面「男伊達」として賛美されることもあったのです。

傾奇者の背景

戦乱の世が終わり、武家奉公人は花道をなくし、居場所をどこに見出していいのか解らないといった閉塞感の中にいました。
その社会に対する不満が反社会的で刹那的な生き方を選択させたのでしょう。
旗本や御家人の子たちも傾奇者にその身を投じたことから見るに、平和な世にある若者の「居場所の無さ」は今に通じるものがあるように思います。
彼らを自暴自棄に走らせたものは、平和な世には自分の出る幕がないという焦りや諦めだったのかもしれません。

歴史上の傾奇者

織田信長の芝居がかった扮装はまさに傾奇者といえましょうし、漫画で有名となった前田利益もまた扮装もいたずら心も傾奇者でした。
徳川吉宗のやんちゃぶりも「傾奇者」と称されることがあります。
しかしこの3人は理由なく粗暴というわけではありませんし、実に風流人で好奇心が強く、情深い一面が見え隠れする人物です。
伊達政宗が京に進軍するおり、なかなか目の肥えた今日の人々が感嘆するほど美しく華やかな戦装束に身を包んだ部隊であったそうです。
豪華絢爛で派手ごのみのうえ、高い教養を持つ自由人という気性がもてはやされた時代だったのかもしれません。

天下の傾奇者

天下の傾奇者というよりは「うつけ者」といった方が正しいのかもしれません。
織田信長は敵の目を欺くために、ざんばら髪で腰に荒縄を巻き、短い着物で粗暴な振る舞いを繰り返していました。
それにより「あの息子はバカ息子」という噂がたって、敵は油断したのです。
そういう策略だったということですが、案外楽しんでいたのかもしれません。
その作戦はまんまと功を奏し、天下統一への道を突き進むこととなります。
皆が振り向こうほどの美しい男子でしたから、まともにしていれば狙われていたことでしょう。

織田信長のファッションは特に珍しものを取り入れたものでした。
ポルトガルの宣教師達から送られたものは、躊躇することなく身に纏ってっていたようです。
ブロードはAラインの袖なしのマントに仕上げ、鍔広のハットも着用していたようです。
170センチほどある背丈で華奢な体型で、色白の美男子であった様子。
さぞかし着せ甲斐も着る甲斐もある御方だったでしょう。
ヒダのドレスシャツなども献上されたようですが、それはあまりお召にならなかった様子。
新しもの好きは「黒人の家来をもし、サスケと名づけて可愛がっていた」という逸話からもうかがい知ることができます。
秀吉や家康は外見にあまり自身がなかったのかかなりお金をかけていたそうですが、信長はお金をかけるというよりもセンスを重視していました。
信長のそれはまさに傾奇者そのものであったことでしょう。

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