日本のもうひとつのオーケストラの歴史

 

日本のオーケストラの歴史は山田耕筰氏ドイツ留学からもどった1915年(大正4年)の年に設立されたものからはじまったようです。
山田耕筰氏の留学スポンサーであった財界の名士が設立した「東京フィルハーモニー協会」を母体として作られた混声楽団だったということです。
この東京フィルハーモニー協会は音楽鑑賞サークルであり、音楽に対しての造詣が深い人々のお集まりだったのでしょう。
しかしこれに先駆け認知されていたオーケストラ活動があったのです。

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チンドン屋からの流れ

チンドン屋の起源は江戸時代末期に活躍した「飴売り」ではないかと言われています。
飴売りは「口上」と「楽器」で飴を売り歩く行商人でした。
この飴売りの中でとくに口上が見事であった「飴勝」なる人物が、寄せの宣伝を請け負うこととなりました。
そのうちこの飴勝からの流れで呼び込みに使われる「そざいとーざい」という口上を屋号にした「東西屋」は街頭宣伝業となったのです。
これにもっとエンターテイメント性を持たせた大道芸人の「紅かん」が、チンドン屋の原型を作ったのだそうです。

チンドン屋から楽隊へ

明治の時代になり、店舗が大きくなったことで、宣伝方法の規模も大型化してゆきました。
チンドン屋から大人数を抱える楽隊へと移行していったのです。
もちろん小さな商店はありましたから、チンドン屋は消えることはありませんでした。
しかしチンドン屋さんでは手に負えない大きな宣伝を要する商業施設ができたと理解すればいいのではないでしょうか。
軍楽隊なども雇い入れることがあったようです。
1887年明治20年ゴロになると、民間で西洋楽器を演奏する楽隊は発足されはじめます。
1909年明治42年には百貨店などはファミリーを対象とする戦略からか、少年による小規模な楽団を作るに至ります

少年楽団

東京のの三越百貨店が「三越少年音楽隊」を創設します。
大変に評判がいいものだったのでしょう。
1912年大正元年には大阪三越百貨店と京都大丸百貨店も少年音楽隊を誕生させました。
百貨店や大型店舗がこぞって「少年音楽隊」を作り、ちょっとした流行となりました。
かわいい服を着た少年たちが、十数人で新店舗やオープンの時などに演奏をしたり、娯楽場や食堂などで余興の演奏をご披露していたのだそうです。
この「少年音楽隊」に対抗するように、1911年明治44年には白木屋の「白木屋少女音楽隊」が、1913年大正2年には、「宝塚少女歌劇団」が誕生しました。

少年楽団の功績

少年楽団がデパートなどのハイカラな雰囲気を定着させることに一役買ったことはもちろんです。
西洋文化を民衆の中に知らしめ、文化的な生活を提案する百貨店の役割を大きく助けました。
しかしそれ以上に日本の音楽シーンの発展に、大きく貢献したことはあまり知られていません。
少年音楽隊の出身者は、ジャズや軽音楽を中心とした作曲や編曲に携わったり、プロの演奏家となったりしました。
また対象に入ってからは流行歌の作曲や、ダンスホールでの演奏、劇場や映画館の音楽演奏などの場で活躍することとなりました。
大阪御うなぎ料亭「出雲屋少年音楽隊」の出身者には、「一杯のコーヒーから」や「東京ブギウギ」の作曲家として有名な服部良一氏がいます。
この「出雲屋少年音楽隊」に1番の成績で入隊したそうです。
残念ながら第一次大戦の不景気から、この楽団は2年後に解散してしまったようですが、商人になることを当たり前とされていた服部氏の人生を大きく変えるものとなったのです。
また東京フィルハーモニー交響楽団も1911年明治44年に発足した名古屋の「いとう呉服店」の音楽隊として発足したことが起こりなのです。
1938年昭和13年に東京の「中央交響楽団」として活動しはじめ、戦後の1945年昭和20年に「東京フィル」という名称となりました。

この一連のブームがなければ、日本の音楽の発展自体も違ったものになっていたことでしょう。

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