「国民のお遊び」としてのパチンコを考える

   2013/06/17

この記事の所要時間: 332

パチンコは法律問題や国家間紛争などに常に翻弄されて今に至りますが、ただ単に「国民のお遊び」としてのパチンコを追ってみましょう。

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パチンコの由来はコリントゲーム

コリントゲームとは、スマートボールを想像すればいいと思われます。
ビリヤードを原型とし、キューとなる物を右下に固定した傾斜のある台で球を突いて遊ぶといった形状のものでした。
それに興じたフランスの貴族の名前をとって「バガテル」と呼ばれていたようです。
アメリカにわたりフリッパーピンボールやビンゴピンボールへと進化し、アメリカ経由で日本に渡ったものは「スマートボール」となりました。
これがパチンコの発祥とする説と、ヨーロッパから輸入された縦型のウォールゲームを由来とする説がありますが、後者が有力とされています。
形状もごく初期のパチンコ台に酷似しています。
1930年に風俗営業法第一号店として名古屋でパチンコ店が許可され開店しました。

パチンコの冬の時代

1930年に名古屋で第一号店が開店したパチンコですが、高知で大流行したのが1936年。
半年で35店舗が開店されるほどの熱狂ぶりでした。
しかし日中戦争が勃発して1937年、戦時特例法によりパチンコ店の新規開店は禁止されます。
この年、鋼球式のパチンコが登場しました。
1941年には太平洋戦争が始まり、戦時体制を強いられた影響はパチンコにも及びます。
1942年には全面禁止となってしまいました。
パチンコ店は閉店、台は処分されました。
現在あまり残っていないのは、この時期のせいでしょう。
しかし戦後の1946年には復活。
ようやく冬の時代が終りを告げました。
1968年には風俗営業法の制定によって許可営業の形を取ることとなりました
このころに「正村ゲージ」も登場したのです。

正村竹一さんという人

正村竹一氏はもともとガラス商でした。
昭和11年に名古屋でパチンコ店を開業しました。
戦後、全てが焼け野原となってしまった日本でしたが、正村氏はガラスとベニヤ板の在り処をご存知でした。
そこでパチンコ台を作り、みずからパチンコ店を再開したのです。
戦後すぐにパチンコ店を開業できたのは、戦前に開業免許を持っていたごく一部の人でした。
戦前にパチンコ店を経営していた正村氏はすぐさま開店できる立場におありでした。
その後改良に改良を重ね、正村ゲージを編み出しましたのです。

正村ゲージの功績

それまでのパチンコ台は入賞口が多く、バラ釘だけで盤面が構成されていました。
正村氏は1948年に入賞口を減らし、玉の流れが釘によって誘導されるタイプのパチンコ台を考案しました。
この釘並びが正村ゲージです。
天釘、ヨロイ釘、ハカマといった釘並びと共に、風車や賞球のベル音も正村が導入したのです。
当時のパチンコ台は手打ちであったことからプレイヤーの技術介入度が高くなり、ゲーム性の面白さが大衆に受けました。
また「スランプ」を創造することができたのも、賞賛に値します。
正村の遊技場は連日大盛況となり、名古屋の遊戯メーカーは正村式のゲージや部品を使ったパチンコ台を大量生産し始めました。
それと同時に名古屋はパチンコ台の8割以上を生産する「パチンコのメッカ」となっていました。
「釘師との戦い」といった面白さを作り出したのも、この正村ゲージがあってこそのものだったと思われます。

考案者である正村は、広くゲージが浸透し業界の飛躍に貢献できることを優先して、特許申請などは行いませんでした。
このため知名度の高さに反して金銭的な恩恵はさほど受けることがありませんでした。
2010年に正村商会は破産申立をし、実質倒産となりました。
もし特許申請などを行なっていれば、どれほどの財を成したかしれない正村です。
その貢献を思うに、正村の破産申し立てをなんとも釈然としない思いで聞いていました。
正村のホールも今は取り壊され、マンションが建っているとのことです。
だれも正村商会に手を差し伸べなかったのでしょうか。
今のパチンコは、すべて正村ゲージにつながっています。

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